なんだかふと高校のとき家庭科の授業が一緒だった
美術部の年上の背の小さな女の子と連絡がとりたくなった。
サイケデリックな絵を描く人だった。
でもあたしは彼女の名前をよく知らなかった。
「モモちゃん」と呼ばれていたしあたしもそう呼んでいた。
東京の美大に行った「モモちゃん」は元気かな。
ずっと前に高校に遊びにいったとき
偶然に「モモちゃん」に会ったことがある。
「モモちゃん」はぶれない。
彼もぶれない。
大好きな女友達も男友達も。
あの学校はぶれない人間ばかりだった。
学校の方針がそうだからだと思う。
あたしもかつてぶれない人間だった。
16歳のころは好き嫌いがはっきりしていた。
よく言えば柔軟に、悪く言えば優柔不断になった。

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近頃よく自分の日記を読み返してる。


彼と付き合ってたころの日記を読むと不思議な気持ちになった。
あんなにあたしのことを好きだと言ってくれた人が、
いまはあたしから連絡しなきゃ都合がつかず、
隣にいて抱きしめることもなく、
すやすやと眠っていたりする。
そして時々あたしのうれしいことをしてくれる。
あのときは彼はあたしに対して好きという気持ちはあったけど、
きっと信頼とかそういうレベルではなかったのだと思う。
そういう次元じゃなくてもっと「好き」だけの世界だったんだ。
いまはそんな強い気持ちはないけれど、
信頼はある。
からしゃべらなくても居心地がいいんだと思う。
あたしの横ですやすや眠っていられるんだと思う。
それはそれで心地いい。


あと愛犬が死んだときの日記はいまだに読み返すのがつらい。
近頃本当に毎日思い出さないことのほうが多くなって、
「1年経つとこうなんだ」
って気付いてなんだかもやもやとした気持ちになる。
誰からも思い出されなくなったら最初から存在してないのと一緒という
考えがあたしの中にはあって毎日思っていたいと思うのに、難しい。
毎日思い出しているのはつらくない。
でもたまに思い出したときなんともいえない気持ちになる。


それからヤツに恋をしていたときのことが
冷静に客観的に見られるようになった。
あたしは15歳の女子中学生よりも当時23歳のヤツの
年齢のほうに近付いてしまった。
そして手をつなぐこともキスをすることも
たやすいことだと気付いてしまった。
人によってはたやすくないのかもしれないけど。
でもあたしにとって特にこの1年それはたやすいことだった。
彼が好きでも他の男の人とそういうことができた。
そういう自分はきらいだけどそういうことはできた。
でも彼よりヤツのほうが人間くさいと思った。
ヤツは二度電話をかけてきて
「彼女と別れることになるかもしれない
 お前の話全部彼女にした」
と言われたりした。
あとあたしともう連絡をとらないようにとわざと
敬語でそっけなくしゃべったりした。そういうところ。
でもキスをしたりしたことは当時のヤツにとって
性欲だったかもしれないけど、
先生という職業を危なくさせるあたしという存在に
かまってくれたその勇気のことを考えると、
単に性欲だけじゃなかったと思いたい。
先生、あたしはもうお酒も煙草も合法の年齢になりました。
当時先生のことを「ヤツ」と表記したのは、
あたしがまだ好きで、まだ若くて、まだ時間が経ってなかったから。
道徳的に正しくないと思ったから。
数年経ったら正しくなるわけではないけどね。
もう時効だと思った。
ヤツに比べて彼は思考がよく見えない。
彼の別れた直後は突き放すでもなく優しいわけでもなく。
都合が悪くなるとスルーくらいしかしなかった。
もしかして彼はあたしを友達として失うことに恐怖をおぼえた?
いやいや、付き合うまで友達として濃い関係は築いてない。
いまのこの信頼関係は別れてから人間として知ろうとした結果だ。
自信持とう。


もうはてなで書いて長いなぁ。
あまり文体も変わらない。
ただ年はとってしまったのだと思う。
きっとあわただしく変わっていく10代後半から20代前半を
こんな形で残せておいてよかった。