時間差で風邪になるのと同様に、
時間差で典型的なのどのいがいがを抱えるのもエロい。


ということで昨日のバイトは22時上がりのメンバーで
別の店舗に焼肉を食べに行った。
ここ数日豚カルが食べたかったわたしは狂喜乱舞。
外見が好みすぎるけど内面がまったくつかめないフリーターの先輩と、
同大学他学部の4年の先輩と、
別大学の1年の後輩という珍しいメンバーで肉を食らった。
ああ・・・美味・・・。
後輩以外が市内に住んでいるので、
わたしは後輩をお持ち帰りして一緒のベッドで眠った。
女の子だけど。


よく眠れなかったけど人が隣にいるのはとてもいいもので、
朝方後輩は帰ってまた眠りなおした。
平日もそうだけど土日くらい胸を張って怠惰でいたいので、
時間の許す限り睡眠をむさぼった。


生理痛がこわかったので薬を飲んでバイトにいどみ、
減らないウェイティングをさばき、
22時半ぐらいにやっと落ち着いた。
落ち着くと疲労は姿をあわらすもので、
わたしは生理痛特有のあの倦怠感に襲われた。
あしたは2日目かつ今日と同じ17時23時シフト。
予約が少ないのが唯一の望みだけど、それもどうかな。
テレビで紹介されてから夏のように忙しい。

夜中にふと鬱の波に飲み込まれてしまって、
案の定2限に間に合わなかった。
・・・それどころか3限に遅刻までする。これはひどい


しかも2限に4限の課題を考えようなどとふざけた考えをしていたので、
やっぱり4限の課題はできていなくて申し訳なさから欠席した。
きちんとしたいのにできない。


バイト後は22時上がりのメンバーで焼肉。
焼肉店勤務は焼肉を特別なごちそうだとは思わない。
本当に月1.5のペースだったりする。
ハニーは一時期週1とか。バイトみたい。

今日は自分を甘やかす日と決め込んで、
毛布といちゃいちゃしたりドトールでミルクティー片手に読書したり
黄金の絨毯を蹴り上げたり両面テープを求めて天神をさまよったり
それから検索でひっかかった某写真家の個展に行ってきたりした。
近頃すべてがめまぐるしくて何も目に留まらなくて
本能的な欲求としなければならないことの間を行ったりきたりしていたから、
今日は五感から得るものすべてが新鮮だった。

揚げ足取りばかりの承認式。
くだらない。


泣きたくて彼に電話したけど彼は体調悪そうで、
もう気分も体調も悪かったので
その後の飲み会も一次会で帰った。


わんわん泣きたい。
それより泣かせてくれる人が欲しい。

 今日は岡本太郎第2週目。


 表現主義(expressionism)と印象派(impressionism)の対比。印象派はimpressの表すように外から内への芸術であるのに対し、表現主義はexpressの表すように内から外への芸術である。よって、印象派は写実的であり、形あるものをいかに美しく描くかという点が重視される。一方、表現主義は自分の形なきものである内面を外に出すために、抽象芸術にならざるを得ない。岡本太郎ピカソもわたしには理解できない。というのは、わたしは岡本太郎でもピカソでもないからである。どんなに同じ経験をした人でも、どんなに共通点の多い人でも、自分の内面を抽象化したときに理解できる可能性は低い。もし、抽象化したものがたくさんの人間に理解されるとしたら一般認識に基づくただの表現(たとえば、失恋した場合などにハートの割れた様子など)であり、「芸術活動」と呼ぶにはいささかおこがましい。


 では、表現の道具が違うとどうなるのだろうか。絵筆をカメラに持ちかえて考えてみたい。目の前の世界をあるがままに切り取る写真による表現は常に印象派なのだろうか。答えは否である。『日本の絶景百選』にあるような風景写真などはまさしく印象派である。被写体の美しさや圧倒的な存在感を映すのが写真における「印象派」だ。しかし、視点を変えることで表現主義は生まれる。クリスマスのイルミネーションに行ったとして、ツリーも含めたイルミネーション群をそのまま切り取ったら印象派である。しかし、これでもかというほど近付いて電球のキラキラした部分だけ切り取ったらどうだろうか。画面いっぱいの光の球である。物を物として認識させない技法で、写真における「表現主義」は成立するのではないかと考えられる。わたしは印象派に対して否定的な意見を持っているわけではない。印象派には相当な技術と正しさ、客観性が求められる。芸術家でありながらも、一般的な目を兼ね備えてなければならない。きっと人より葛藤が多いだろう。そんな人間は愛すべき存在である。


 また岡本の著書『岡本太郎』の「対極」において、「『生』の内にまた相対立する『反』が共存しており、(中略)私は『合』を拒否する。」(参照「ヘーゲル弁証法http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%81%E8%A8%BC%E6%B3%95)とあり、「瞬間に、血だらけになって対極の中に引き裂かれてあることが絶対なのだ。」と述べている。つまり、納得という形の昇華をしてしまっては、芸術は生まれないとわたしは解釈した。それはわたしの厭世感より芸術は立ち上がるものだという考えに似ていて、だからこそわたしは岡本の芸術観にこんなにも同調するのだろう。その岡本の文章を読みながら、わたしは高校時代の数学教師の話を思い出した。1/3×3=1であることと0.333…×3=0.999…であることに対してつきつめて考えようとする人間は研究家体質であり、何かの計算の途中でこの問題に気付くと先に進めない。気になってどうしようもないからである。しかし、多くの人間は「そういうものだ」と納得し、続きの計算に移っていく。たしかこのような内容だったはずだ。その様子は、世の中に対する不平や不満、違和感を「いやだ!」と真っ向から戦おうとしズタズタになりつつ芸術という出口を求めていこうとする人と、「そういうものだ」とむりやりにでも割り切って日々を送る人、そのようにも見える。


 というようなことを2限の90分で考え込んでいたら、どうもこうも岡本太郎が愛しくなってどうしようもない12月のはじまり。自分が芸術家になりたいのではなくて、芸術の奥深いところやその思想について勉強したい。承認式終わったら読書しよう。

 
 それから今日は彼から電話がきた。とてもめずらしい。この前歯が抜ける夢を見てこわくなって電話して喉をやられていた彼は、「お前のせいで風邪ひいたやん」と言った。内容はどうであれ彼はなんだか今日さみしそうな感じがした。うなづいてあげることしかできなくてごめん。ことばでなぐさめてあげられない。ぎゅってしてあげたい。

 

あした早起きできる自信がなかったので
3限遅刻覚悟でエコルを更新した。
今日の夕方はひどい混雑だったはず。


そしてごはんも食べずに3限と4限に出席して、
バタバタとサークル関係の行事の支度をして
5分で少し胃を満たして2時間くらいリハーサルをした。
でも今日になって新型感染者が2人も出てしまって、
どうしようもない事態になってしまった。


それから更に話し合いして帰り着いたのは22時。
近頃ゆっくり買い物もできてないな。

彼がいよいよ掴めなくなった
写真もどうやって撮っていいかわかんなかった
魅力がわかんなかった
見失った


夏のことを思い出して叫びだしたくなったかと思えば落ち込んで
でも日常は勉強とバイトと趣味で9割埋まっていたから
彼がいないことにも慣れている
数ヶ月会わないのも数週間連絡とらないのも普通で
あの日を境にある種の諦めを彼に見てる
なので近頃は離れようと意識して必要以上に連絡はとってない
別れたあとはずっと
「あの時あんなことさえ言わなければ・・・」
と後悔していたけど遅かれ早かれ別れることになったと21歳の今は思う
彼とわたしの考え方は根本的なところが一致してないからだ
(お互いが歩み寄ればやっていける程度のものだけど)
(むしろその部分は愛しかったり魅力的でもあるのだけど)
多感な数年間を友達や恋人や家族的視点でながめてきた人のことを愛しいと思う
でももう離れなければいけない
自分の中心にしてしまっていては失うものが多すぎる


でも今日見た夢がこわかったから連絡をとってしまった
寝起きの声がセクシーだから夜の遅い時間にかけてしまう
少し調子の悪そうな声と相変わらずの会社に行きたくなさそうな様子だった
「大丈夫?」
「何が」
「歯が抜ける夢見たから
 自分に近い人に不幸が起こるらしい」
「お前のせいで俺の喉が・・・!」
お前のうつした風邪のせいで38度の高熱を出したよと教えてあげたい
「何もない・・・わけじゃないけど大事じゃないならよかった
 気をつけてね」
「うん
 ・・・わざわざありがと」
「いいえ、おやすみ」
「おやすみー」
電話切ったあと口角緩みっぱなしの自分がキモチワルイ
でももうそろそろ離れなきゃいけない
一緒にいることとしあわせがイコールにならない限り


バイト先の新人さんに名前をさん付けで呼ばれるようになりました
ユカさん・・・ユカさん・・・ユカさん・・・(エコー)
いつか年下の男の人と付き合ってそう呼ばれるのが夢です
別に年下の男の人限定じゃなくていいよ!
みんな呼んでいいよ!SAY!