今日は岡本太郎第2週目。


 表現主義(expressionism)と印象派(impressionism)の対比。印象派はimpressの表すように外から内への芸術であるのに対し、表現主義はexpressの表すように内から外への芸術である。よって、印象派は写実的であり、形あるものをいかに美しく描くかという点が重視される。一方、表現主義は自分の形なきものである内面を外に出すために、抽象芸術にならざるを得ない。岡本太郎ピカソもわたしには理解できない。というのは、わたしは岡本太郎でもピカソでもないからである。どんなに同じ経験をした人でも、どんなに共通点の多い人でも、自分の内面を抽象化したときに理解できる可能性は低い。もし、抽象化したものがたくさんの人間に理解されるとしたら一般認識に基づくただの表現(たとえば、失恋した場合などにハートの割れた様子など)であり、「芸術活動」と呼ぶにはいささかおこがましい。


 では、表現の道具が違うとどうなるのだろうか。絵筆をカメラに持ちかえて考えてみたい。目の前の世界をあるがままに切り取る写真による表現は常に印象派なのだろうか。答えは否である。『日本の絶景百選』にあるような風景写真などはまさしく印象派である。被写体の美しさや圧倒的な存在感を映すのが写真における「印象派」だ。しかし、視点を変えることで表現主義は生まれる。クリスマスのイルミネーションに行ったとして、ツリーも含めたイルミネーション群をそのまま切り取ったら印象派である。しかし、これでもかというほど近付いて電球のキラキラした部分だけ切り取ったらどうだろうか。画面いっぱいの光の球である。物を物として認識させない技法で、写真における「表現主義」は成立するのではないかと考えられる。わたしは印象派に対して否定的な意見を持っているわけではない。印象派には相当な技術と正しさ、客観性が求められる。芸術家でありながらも、一般的な目を兼ね備えてなければならない。きっと人より葛藤が多いだろう。そんな人間は愛すべき存在である。


 また岡本の著書『岡本太郎』の「対極」において、「『生』の内にまた相対立する『反』が共存しており、(中略)私は『合』を拒否する。」(参照「ヘーゲル弁証法http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%81%E8%A8%BC%E6%B3%95)とあり、「瞬間に、血だらけになって対極の中に引き裂かれてあることが絶対なのだ。」と述べている。つまり、納得という形の昇華をしてしまっては、芸術は生まれないとわたしは解釈した。それはわたしの厭世感より芸術は立ち上がるものだという考えに似ていて、だからこそわたしは岡本の芸術観にこんなにも同調するのだろう。その岡本の文章を読みながら、わたしは高校時代の数学教師の話を思い出した。1/3×3=1であることと0.333…×3=0.999…であることに対してつきつめて考えようとする人間は研究家体質であり、何かの計算の途中でこの問題に気付くと先に進めない。気になってどうしようもないからである。しかし、多くの人間は「そういうものだ」と納得し、続きの計算に移っていく。たしかこのような内容だったはずだ。その様子は、世の中に対する不平や不満、違和感を「いやだ!」と真っ向から戦おうとしズタズタになりつつ芸術という出口を求めていこうとする人と、「そういうものだ」とむりやりにでも割り切って日々を送る人、そのようにも見える。


 というようなことを2限の90分で考え込んでいたら、どうもこうも岡本太郎が愛しくなってどうしようもない12月のはじまり。自分が芸術家になりたいのではなくて、芸術の奥深いところやその思想について勉強したい。承認式終わったら読書しよう。

 
 それから今日は彼から電話がきた。とてもめずらしい。この前歯が抜ける夢を見てこわくなって電話して喉をやられていた彼は、「お前のせいで風邪ひいたやん」と言った。内容はどうであれ彼はなんだか今日さみしそうな感じがした。うなづいてあげることしかできなくてごめん。ことばでなぐさめてあげられない。ぎゅってしてあげたい。